がいしの歴史

第三章 電気が通信用から照明用に拡大

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日本の「通信用がいし」生産へ

1869年~1870年

1 日本での電信網の普及

ペリーが献上した電信機は江戸幕府の消滅と共に忘れ去られますが、列強諸外国に追いつくため電信網の整備が精力的に進められます。1869年(明治2)東京~横浜間で開始された電信網は、1873年(明治6)には明治政府・工部省の石丸安世(1839‐1902)らの推進により東京~長崎間まで広がります。

2 国産「磁器がいし」の登場!

長崎からウラジオストックや上海に繋がった電信網により、日本にも海外情報が直接入って来るようになりました。通信用の「がいし」に関しては当初輸入された「ガラスがいし」に頼っていましたが、石丸の依頼で1870年(明治3)に佐賀の八代深川栄左衛門(1833‐1889、1875年に香蘭社を設立)が「磁器がいし」を製造、以後日本では国産「磁器がいし」が主流となります。

八代深川栄左衛門(1833‐1889)と日本周辺の通信網

そのころ世界では

1875年 オペラ「カルメン」初演

ジョルジュ・ビゼー作曲によるオペラ「カルメン」が1875年3月3日、パリのオペラ=コミック座で初演されました。
初演は不評でしたが、その後客入りは増え、評価も上がりました。

カルメンのイラスト

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エジソンがニューヨークで電灯事業を開始

1879年~1882年

1 エジソンの「白熱電球」と「直流発電機」

電信の次に電気の応用が実用化されたのは照明用途です。1879年(明治12)にトーマス・エジソン(1847‐1931)が一般照明用として実用的な白熱電球を開発します。
エジソンは白熱電球と合わせて直流発電機と配電システムなどを確立し、白熱電球による照明を普及させていきました。

エジソン(1847‐1931)電球のイラスト

1882年(明治15)にニューヨークで電灯事業がスタートし大成功を収めます。
ニューヨークのパールストリートに設置した世界初の商用中央発電所(110V・540kW)では、エジソン機械工場で製造した低圧直流発電機(ジャンボ発電機)6台から発電した直流電力を配電してウォール街の半径約1マイル(1.6km)にある白熱電灯に電力を供給しました。

2 エジソンの送電に、「がいし」は…?

発電所からの送電線は絶縁処理されて、長い鉄パイプ中を通されて埋設されました。個々の建物にはパラフィンなどの樹脂をしみ込ませた綿布で保護したフィーダー線で引き込まれましたので、「がいし」は使われていなかったと推定されます。

3 直流による送電ロスの問題

エジソンが開発した電灯事業はアメリカ全土をはじめヨーロッパや南米の主要都市そして日本にも普及します。しかしエジソンの低圧直流方式は普及が進むにつれて1マイル程度の狭い範囲しか電力供給できない送電ロス問題に直面することになってきます。

そのころ世界では

1882年 サグラダ・ファミリア
建設開始

スペインで建築家アントニ・ガウディのサグラダ・ファミリアの建設が始まりました。完成予定は2026年。2005年にユネスコの世界文化遺産に登録されました。

サグラダ・ファミリアのイラスト

3-3

「電流戦争」と交流高圧送電の普及

1851年~1893年

1 送電ロスの少ない交流送電システムに注目

ヨーロッパの発明家の中には交流送電システムに関して研究している人がいました。交流は電圧の変更が比較的簡単なため、送電側で高圧に昇圧して送電し利用者側で低圧に降圧して受電することにより、送電ロスを少なくすることができます。

シーメンス(1816‐1892)世界初の単相交流発電機は、ウエルナー・シーメンス(1816‐1892)によって、すでに1851年に作られていました。

ロンドン発明博覧会フランスのルシアン・ゴラール(1850‐1888)とイングランドのジョン・ディクソン・ギブス(1834‐1912)が開発した誘導コイル(=変圧器)は1881年のロンドンの発明博覧会に出品され、アメリカの事業家であるジョージ・ウエスティングハウス(1846‐1914)の関心を引きました。

2 ウエスティングハウスと交流送電

1885年にウエスティングハウスは、ゴラールとギブスの変圧器を注文し、アメリカ国内での特許権も確保します。
同時に電気技術者であったウィリアム・スタンリー(1858‐1916)に、ゴラールとギブスの変圧器が大規模な中央発電所に適しているかを検討させます。
スタンリーはゴラールとギブスの変圧器は改良が必要と判断し、1886年マサチューセッツ州グレートバーリントンで新しい変圧器の設計・製作に取り掛かりました。

ウエスティングハウス(1846‐1914)とスタンリー(1858‐1916)

3 ここで送電に「がいし」が使われた…かも!?

開発した変圧器を使ってウエスティングハウスの蒸気エンジン(水力発電との文献も多い)でシーメンスの133Hz単相交流発電機で起こした500Vの交流電力を3,000Vに昇圧し、4,000フィート(約1.2km)の距離を送電し、100Vに降圧して配電し23軒の店舗の電灯を灯すことに成功しました。
送電線は街路樹に絶縁体で固定されていましたので、この時使われた絶縁体が初めての「送電用がいし」になるかもしれませんが、詳細は分かっていません。

4 ニコラ・テスラの交流モーター

同じ年にウエスティングハウスはウエスティングハウス・エレクトリック・カンパニーをピッツバーグに設立し、133Hz単相交流送電システムを多数設置。さらに交流システムを普及させるためには、交流電力の使用量を測る装置や性能の良い交流モーターが必要なことが分かってきました。

テスラ(1856‐1943)

当時のオーストリア帝国(現在のクロアチア)に生まれたニコラ・テスラ(1856‐1943)は、グラーツ工科大学とプラハ大学で学んだ後、ブタペスト国営電信局で技師として働いていた時に、二相交流による回転磁界の原理を考えつき交流モーターを考え出します。

テスラはその実現を目指して1884年にヨーロッパからアメリカに渡り、エジソン機械工場に発電機の設計者として就職しました。

対立するテスラとエジソンテスラはエジソンに交流による電力事業を提案しますが、直流による電力事業を進めていたエジソンからは全く認められず、すぐにエジソンの会社を辞めて独り開発を進めます。

1887年に出資者を見つけたテスラは実験工房を設立し、交流発電機やモーターを試作して自分のアイデアの正しさやその優れた性能を確かめることに成功し、交流システムに関する特許を出願します。

1888年には出願した交流モーターと多相交流による発電・送配電システムに関する40余件の特許が成立し、アメリカ電気学会で「交流モーターと変圧器による新電力システム」というタイトルで講演する機会を得ます。

5 ウエスティングハウス・テスラ vs エジソンの「電流戦争」勃発

交流と直流で電流戦争(War of currents)勃発

テスラの多相交流方式の価値を認めたウエスティングハウスは全ての特許を多額の報酬で買い取り、テスラは1年間ウエスティングハウスの技術者達を指導します。

テスラは単相交流発電機に適した60Hzの分相型誘導モーターをはじめとして発電機や変圧器などの多相交流システムを一気に開発。両者は協力して交流配電方式の普及を目指し、エジソンの進める直流電力事業への挑戦を開始します。有名な「電流戦争」の始まりです。

6 交流の勝利。そして、送電ロス低減のため「がいし」も発展

ウエスティングハウスは1888年にはニューヨーク州バッファローに交流を発電・配電する初の商用中央発電所を開設し1,000Vの高圧交流送電と50Vの配電に成功。

シカゴ万博とナイアガラの滝のイラスト

1893年のシカゴ万博では単相500馬力の発電機20台を利用して2相12,000馬力の交流発電機とし、この発電機の電力を変圧器によって昇圧して送電し、降圧して1,000個の電灯を点灯するとともに誘導モーターを回転させるデモンストレーションを行い高く評価されました。

1896年にはナイアガラ瀑布発電所の電力がテスラの開発した二相交流システムで11kVの電圧で40km離れたバッファローに送電されたことにより、以後高圧交流送電方式が主流になります。

エネルギー効率の向上のため発電所は大型になり、発電所から消費地への送電ロス低減のため送電電圧はますます向上することになります。電力インフラに高性能の「高圧がいし」が求められる時代が始まります。

そのころ世界では

1886年 自由の女神像完成

自由と民主主義を象徴したこの像は、アメリカ合衆国の独立100周年を記念して、独立運動を支援したフランス人の募金によって贈呈されました。1886年に完成し、除幕式が行われました。

自由の女神像

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