「がいし」の歴史

第二章 ペリーが通信と電気の技術を日本に持ってきた

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黒船と共に電信技術到来!

1853年

モールスがアメリカのワシントン~ボルチモア間の電信実験線を完成した10年後の1853年(嘉永6)7月8日、アメリカ海軍の司令官(提督)マシュー・ペリー(1794‐1858)率いる4隻の黒船が日本の浦賀沖に来航してミラード・フィルモア大統領(1800‐1874)の国書を手渡し、幕府は受理します。

ペリー(1794‐1858)と黒船のイラスト

翌年2月にペリーは再び9隻の大艦隊を江戸湾内の神奈川沖(現在の横浜市金沢区沖)に集結させ、当時田舎の漁村だった横浜の地で国書の回答を求める交渉を行います。

3月8日から始まった交渉は3月28日までの3週間に計4回行われ、3月31日に日米和親条約が締結されます。この3週間の交渉期間中にペリーは持参した献上品を江戸幕府に贈呈するとともにデモンストレーションを行って当時の世界の最先端の技術を紹介し、開国のメリットを幕府側の交渉担当者・林復斎(1800‐1859)に訴えました。

その時に展示された最先端技術の一つが電信技術でした。

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「ガラスがいし」が使われた…!?

1854年

ペリーは持参した2台のモールス式電信機を交渉場所の応接所と弁天前の中山吉左衛門という人物の居宅にそれぞれ設置し、両地点を結ぶ約1kmの間に電信柱を30本ほど立てました。各電信柱には電信線の支えとして「ガラスがいし」が使われたとみられます。通信線は電信柱の間を空中で結ばれました。ペリーは電信機のほか、電線や電池、「がいし」など、装置一式を持参したのです。
応接所からは江戸(JEDO)、弁天前からは横浜(YOKOHAMA)の文字が交信されて居合わせた幕府の役人達を驚かせました。

通信のデモンストレーションでJEDOとYOKOHAMAの文字が交信された

以上のことから日本における最初の「がいし」は、ペリー提督が1854年(嘉永7)3月に横浜で行った電信のデモンストレーション用に使われた電信用の「ガラスがいし」と考えられます。

そのころ世界では

1853年 ニューヨーク万国博覧会開幕

7月14日に開幕し、翌54年11月に閉幕するまでの間に110万人の観客が来場。
世界初の落下防止装置のついた蒸気エレベーターが出品されました。

蒸気エレベーターのイラスト

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